( 敦賀蓮グッドエンド/CMオンエア前 ) 「おはようございます市ヶ谷監督」 「やぁ、おはよう」 廊下に設けられた休憩スペースで台本を読んでいた青年が市ヶ谷の姿を見て立ち上がった。 時々テレビで見かける新人俳優だ。 近くにはこの間PVの撮影を請負った松内瑠璃子の姿もある。 「監督、おはようございます。先日はご一緒できてとても勉強になりました、またご指導宜しくお願いします」 「ああ、またよろしくな」 市ヶ谷は映画やCMしか撮らないと思われがちだがミュージシャンのPVなども依頼があれば引き受ける。 映画資金を稼ぐためなら仕事を選んでなどいられないという大人の事情もあるのだが、撮る画には拘っても仕事は 選り好みしないのがモットーなのだ。 しかしLMEというプロダクションはどのフロアでも会う人ごとに丁寧な挨拶が返って来る。 所用で久しぶりにLMEの事務所へと足を運んだ市ヶ谷だが、何度来てもこれには感心させられると市ヶ谷は思った。 芸能界に身を置く若者はとかく自己顕示欲が強く、少しばかり人気が出ると自分の力だけで売れたと勘違いして周り の者を低く見がちだが、ここLMEの連中は社長の教育が行き届いているのか、よっぽど厳しい先輩がいるのか、こと挨 拶は本当に行き届いていた。 ( まぁ、あの社長と敦賀君がいるからな…… ) 自らを愛の伝道師と名乗り、奇天烈なコスプレで身を飾る社長と、歳にそぐわぬ落ち着きに人気と実力とを兼ね備えた 若手俳優、敦賀蓮はここの看板だ。 その敦賀蓮はことさら仕事に厳しい事で有名なのである。 一緒に何度も仕事をしている市ヶ谷も彼の仕事に対する姿勢には舌を巻かされることがあった。 「それにあの子もな…」 ―― 最上キョーコ つい先日、CM撮影で一緒に仕事をしたLMEの新人タレントだ。 ドラマ、ダークムーンでの未緒役で見せた演技に一目惚れし、今度のCMに使いたいとオファーをしたのは市ヶ谷だった が、正直なところ若干16歳の少女に目だけの演技を求めるのは酷かとも思っていた。 市ヶ谷の欲しい画は敦賀蓮演じる相手役の男が欲しくて欲しくてたまらないという情念の籠もった眼差しだ。 実際、キョーコ本人を見てもそんな目が出来るほどの恋愛経験があるとも思えなかった。 ただ引っ掛かるものは感じたのだ。 それは本当に勘としか言いようの無いものだったが、緊張したキョーコを気遣う蓮の姿を見たときにその勘は確信 に変わった。 ソフィスティケートされた振る舞いで誰にでも優しく接する蓮のそれを市ヶ谷は一種のポーズのようなものであると踏ん でいた。 役者とは生身の本人とカメラ越しに見るそれとでは意外とギャップがあるものだ。 ところが蓮には全くそれが感じられない。 カメラがあっても無くても敦賀蓮はイメージのそのままでズレやブレのようなものは感じられなかった。 まるで彼が敦賀蓮という人間そのものを演じているかのように。 その蓮の表情が変わった。 今まで見せた事のない生身の男の顔にだ。 これは面白いものが撮れそうだ…… その確信があったからこそ市ヶ谷は待った。 市ヶ谷の求めるものにキョーコが応えてくれる瞬間を。 そしてそれは確かな手ごたえを伴って現実のものとなり、その結実した映像が今、市ヶ谷の手元にある。 ――アルマンディ サマーコレクション パイロットフィルム CMのオンエア前にどうしても見せて欲しいと宝田氏に頼まれてマスターフィルムからダビングしたものだ。 実際のCMとして流れされるものはこれを更に編集して90秒と60秒のものになる。 さて宝田氏の反応はどうか? わざわざ市ヶ谷が自身でフィルムを届けに来たのはこれが発表前のとても重要な映像だからだが、LMEの社長の反応 も楽しみだということもあった。 「あれ、監督??」 「あ、本当だ、おはようございます市ヶ谷監督」 回想に浸っていた市ヶ谷を低く甘い響きを持った声が現実に呼び戻した。 「おはようございます、市ヶ谷監督。今日は社長に御用ですか?」 そう言ってゆったりとした足取りで近づいて来るのは今の今まで市ヶ谷の頭を占めていた敦賀蓮と最上キョーコだ。 その二人におはようと返事をしかけて市ヶ谷は思わず息を飲んだ。 「ほう……」 キョーコの様子がまた変化している。 ばら色の頬、ふっくらと潤いのある唇、微かに潤む瞳はそれだけでほんのりとした色気を感じさせ、その肌は輝くような 張りに満ちていた。 CM撮影の時よりまたさらに一皮剥けたか? いや、違うなあれはおそらく、 「監督?何か御用だったのでは?」 市ヶ谷の視線に気付いた蓮が表面穏やかに、しかし警戒の色を滲ませて聞いてくる。 おっと、こっちもか… 「ああ、いやココの社長に頼まれてちょっとな…」 野暮用だと言いかけたその時キョーコの鞄の中で携帯が鳴り出した。 表示画面を見てキョーコが慌て出す。 「あ、わっわっ!!椹さんに呼び出されてたの忘れてた!!」 お先に失礼しますと言い残し大急ぎで去っていくキョーコの背を見送ると市ヶ谷は蓮に言った。 「スゴいな彼女」 「何がです?」 蓮の声のトーンが落ちている。 「何がって、……」 市ヶ谷の中に押えられない好奇心が頭をもたげる。 これを言ったらこの男はどんな反応をするだろうか? 「ありゃあ……男を知った肌だろう? うん?」 「!!」 蓮の目が驚きで見開かれる。 映画屋の観察眼をナメてもらっちゃ困る。 そう言って表情を窺えば、人前で表情を崩したりしない蓮の目に動揺が走る。 まったく…恋をすれば人は変わるというけれど、こんなに短期間で変貌する二人を市ヶ谷は見たことが無かった。 「あぁ、そんなに警戒しなくても誰にも言ったりせんよ。俺だって彼女のこれからが楽しみなんだから……」 笑って彼の肩を叩く。 彼女はまだ駆け出しのタレントだ、 「ゴシップなんかで潰してしまうには惜しすぎるだろう?」 そう言うと蓮の目から少し険しさが取れた。 「彼女の事、十分注意してやれよ」 「それはもう…、今あらためて肝に銘じました」 少し薬が効きすぎたようだ。 呵呵と笑って今度は背中を叩いてやった。 こんなに敦賀蓮を慌てさせるなんてやっぱり彼女は面白い。 「また今度一緒に仕事しようって言っておいてくれや」 そう言って市ヶ谷は蓮と分かれると社長室のある最上階へと向かったのだった。 End |